新しいソウルを見た 広大なアスファルト広場に余裕と遊び心

汝矣島広場

ソウル

藤本 巧


私設美術館で李朝の小物類を撮影していた。館長は、裁縫道具・眼鏡入れ・物差しなどを撮影台に並べていく。
 どれも華やかな色彩を保ち、細工も凝っている。本来ならば技の押しつけとなるのだが、よく見ると連続する絵柄はところどころ左右にずれ、この歪な仕上がりは一見素人くさく見えてしまう。だがこれは、技を排除した達人の仕事かもしれない!


 李朝時代の物差し類は、水牛の骨に螺鈿(らでん)の華角貼りと、なかなか美しいものであった。だが寸を表す目盛りは半分で終わり、後は飾りとしての草花であったり、魚図・北斗七星などが刻みこまれていた。
 これで用がたせるのか、と思いながら裏返すと、そこには目盛りの続きがあった。それは物差しを回転させながら、図柄を楽しみ寸を計っていくというからくりなのか? なんと韓くにの人たちは、物差しにまで遊び心を忘れず工夫しているのであった。そのことは、どの物差しにも通じていた。


李朝の物差し


 これまで多くの李朝作品群に出会った。そのなかでも日本民藝館所蔵の「白磁おろし皿」は印象深い。それはニンニクのような小ぶりな野菜をおろす道具なのか。基本形は円である。浅く平坦にえぐられた中心部に、四角い隆起部分があり、無造作な網目の切り込みがあった。そして上部には角のような渦巻き形取手が付いている。その形体は動物の顔を印象づける。そこには研ぎ澄まされた形から息づいた、工人の遊び心が見え隠れする。

 以前、京都の陶芸家が作った白磁の「おろし皿」を貰った。その手本は李朝だと言われた。彼は「灰皿として使ってください」とつけくわえた。あの「白磁おろし皿」と似ていたが、どこかが違っていた。
 秀吉の文禄の役(1592)のあと、日本に連れてこられた韓くにの工人たち。彼らが作った白磁の白は、日本人には不吉さを連想させる色だった。その印象を薄めるため紋様や彫りを施した、とその作家は説明してくれた。
 彼は李朝の白磁に魅了され、その世界に精通しているが、李朝の白磁より上手な肌合いには、物をおろすという用としての鋭さが消え、灰皿になってしまうのか! 日本人には李朝の美しさを頭で理解できても、いざ作品となると表現が難しいようだ。

白磁おろし皿

80年代後半、雑誌の表紙撮影で汝矣島(ヨイド)広場まで行った。地下鉄4号線、2号線と乗り換えて合井駅を過ぎた辺りから、地下鉄は地上を走る。
 遠くかなたにノッポビル「63タワー」が陽に照らされていた。後方には国会議事堂が見える。雄大な漢江が広がり高層ビル群が立ち並んでいた。堂山駅で降りて汝矣島広場まで歩くことにした。かつて飛行場だったこの広場では、ローラースケートや自転車を気ままに乗り回す子供たちがいた。

統一日報 2007.8.1 掲載

※図版「白磁おろし」は日本民藝館所蔵「李朝の工芸」
発行:そごう美術館 図録より