「要るだけの物しか有つてゐない生活、それすら有てない生活、無用の物を棄てた生活ではなく、棄てるものさへ始めから有たない生活」(原文のまま)
暮らしから生まれた韓くにの美しさを、私はその著書から学び啓蒙された。
その年の夏、初めて韓国を訪れた。安東に市が立つ日、露天商も買い物客も白衣の民族衣装を纏っていた。麻糸売りの老人だけは極上の麻のパジ・チョゴリを着ていた。冠を被り鼈甲の丸い眼鏡の職人もいた。『工藝』のグラビアで見た世界が私の中でふくらむ。慶尚道の村では、なだらかなカーブを描く藁葺き屋根が山の裾野に点在し、登り窯からは煙がでていた。陶工の住む村に辿り着いたのか?見慣れた日本の風景とは違う心沸き立つ風が流れていた。
工藝 昭和11年
その旅の感動が忘れることができなくて、取材を重ねるようになった。
韓国の地を踏み撮影をするようになって、随分と歳月がたった。70年代は韓国の入国規程で年に4回しか行けなかった。80年代になると、雑誌の取材などで毎月渡韓したこともあった。旅は平均15日間、観光ビザの許す限り滞在した。
ソウル・オリンピック以後は近代化の波で、私の欲する光景もすっかり変わってしまった。それにつれて渡韓の回数も少なくなっていく。韓国を訪れた回数を数えると百回近くにもなった。
書棚には、これまでに撮影してきたフィルム・シートのバインダーが12冊並んでいる。総数約2万カットとなる。渡韓回数とか滞在期間を考えると写真枚数は少ないかもしれない。撮影するだけでなく、韓国の人たちとも接することを心がけた。
韓国の地をよく歩いた。古寺巡礼もした。殆どのお寺が山奥にあった。その途中、農家で休ませてもらいマッコリをご馳走になり、ほろ酔い気分で太陽の照りつける農村を撮影したこともあった。
「韓国で撮影してきた映像の中で、印象に残る写真は?」と問われると、はたと考えてしまう。喧噪の街を離れて、南海の島に行ったとき。アリラン峠の工事現場でたくましく働く人びと。雪が降り積もる江原道の村落。水害で子供を失ったオモニたちが、河に向かって祈る洛東江の土手。いや直指寺の修行僧の暮らし。釜山の露天商の生きざま。と懐かしい思いとともに写真が蘇る。
被写体があってはじめて写真家は成り立つ。頭の中だけでの想像では映像は生まれない。まず行動することからはじまる。そして風景の一部分を切り取り、人物の動きの瞬間を逃さないでシャッターを切る。
掲載の写真は、今から23年前「珍島の海割れ(韓国版・モーゼの奇跡)」の祝祭「竜王祭」で撮影した。
農楽隊(竜王祭)
放送局のヘリコプターが上空を旋回している。ディレクターが祭全体を指示していた。一見民俗村のイベントのように、お決まりの儀式が続く。
祭の中に進入しても、私にはなにか物足りない景色だった。祭の記録だけでは終わりたくなかった。農楽、地神踏み、カンガンスウォレ、珍島野謡と儀式が簡易舞台で執りおこなわれていく。
己の写真が浮かび上がってはこない、そのもどかしさへの苛立ちがあった。シャッターを切るタイミングが鈍る。
儀式はクライマックスに差しかかろうとしたころ、それまで観客として静かに参加していた人びとが、一斉に立ちあがり抑えていた感情が爆発したように踊りだした。祭の渦が動きだしたのである。カメラを構えていた私までが高揚してきた。
カメラの前で、自家製の仮面を被った男が、手を振り上げ足を上げおどける。農楽隊の踊りも、先ほどまでとうって変わり弾けた。
群衆の輪の中、杖でリズムを刻みながら踊るツゥルマギを着た老人がいた。根っから踊り好きのようだった。ところが私が近づいたときには、彼の踊りは終わっていた。カメラのファインダーから目を離し、もう一度踊りをと催促をしてみた。老人は恥じらうこともなく、からくり人形のようにまた踊ってくれた。私の行動と被写体とのリズムが合致したとき、いつしか無我夢中でシャッターを切り続けていた。
雑誌社の編集者たちは、韓国の撮影に於いて自由に取材させてくれた。
竜王祭の取材は、祭の記録としては欠落した組写真となったかもしれない。しかし、19歳のとき「韓くに」で受けた衝撃的な感情と同じ風を求めた。それは私的写真に徹する旅でもあった。
統一日報 2007.3.7 掲載